サンタ・マリア修道院(リポイ Ripoll)
かつて14世紀には地中海の覇者として活躍したカタロニア王国。そのカタロニア王国の基礎を築いてのが9世紀に活躍したギフレ候です。
フランク王国(現在のフランスの元になる)の命をうけ、当時イスラム勢力に占領されていたピレネー山脈以南の土地を奪回するために活躍したのです。
そして、自国領土にするたびに、修道院は教会を建ててキリスト教の再布教に力を注ぎました。
今日行ったのは、そのギフレ候が建設したといわれる修道院。リポイ(Ripoll)のサンタ・マリア修道院です。
フランク王国(現在のフランスの元になる)の命をうけ、当時イスラム勢力に占領されていたピレネー山脈以南の土地を奪回するために活躍したのです。
そして、自国領土にするたびに、修道院は教会を建ててキリスト教の再布教に力を注ぎました。
今日行ったのは、そのギフレ候が建設したといわれる修道院。リポイ(Ripoll)のサンタ・マリア修道院です。
これだけ小さな町だから駐車場は簡単に見つかるだとうと高をくくっていた私たちは、意外な事実にでくわします。
なぜか町の中心部分の駐車場はすべて満車でした。
修道院より600m以上離れたところに運よく駐車スペースを見つけ(そこが止めていいところなのかはわかりませんでしたが、とりあえず車がたくさん止まっていたので、止めました。)、そこに車をすべり込ませて、修道院へと向かいました。
修道院の正面には、大きな彫刻があり、ここには修道院での生活の模様を月ごとに描かれているのだそうです。
そして、修道院の中にはいって、私たちは駐車場が満杯になっている理由がわかりました。修道院の教会部分には人々がぎっしりと熱街日曜のミサが行われていたのです。常設の椅子だけでは足りないらしく、臨時の椅子をいれて、さらに立っている人がいるという盛況ぶりでした。
修道院の正面には、大きな彫刻があり、ここには修道院での生活の模様を月ごとに描かれているのだそうです。
そして、修道院の中にはいって、私たちは駐車場が満杯になっている理由がわかりました。修道院の教会部分には人々がぎっしりと熱街日曜のミサが行われていたのです。常設の椅子だけでは足りないらしく、臨時の椅子をいれて、さらに立っている人がいるという盛況ぶりでした。
まだまだこのあたりでは日曜日にミサにいく信者が多いのでしょうね。もっともミサの後にみんなで飲み食いおしゃべりをするのがならわしでしょうから、そういうところで共同体の絆を強めていくのが彼らのライフ・スタイルなのでしょう。
さすがに私もミサ風景を写真撮影するのは憚られましたので、いったん外に出てミサが終わるまで回廊部分を散歩しました。ここの回廊は二階建てになっていました。あいにくの曇り空でしたが、きれいに整った中庭を囲む回廊には数人の観光客が静かに会話をしながら、我々と同じように時間をつぶしていました。
そうこうしてもミサが終わらないので、一旦修道院をでて隣町にいき、また1時間過ぎた所で、この修道院に戻ってきたら、となりの町役場の前で吹奏楽演奏があったりやたらと修道院前広場が賑やかになっています。
さすがに私もミサ風景を写真撮影するのは憚られましたので、いったん外に出てミサが終わるまで回廊部分を散歩しました。ここの回廊は二階建てになっていました。あいにくの曇り空でしたが、きれいに整った中庭を囲む回廊には数人の観光客が静かに会話をしながら、我々と同じように時間をつぶしていました。
そうこうしてもミサが終わらないので、一旦修道院をでて隣町にいき、また1時間過ぎた所で、この修道院に戻ってきたら、となりの町役場の前で吹奏楽演奏があったりやたらと修道院前広場が賑やかになっています。
また、我々は同じところに車を止めて、今度は修道院の礼拝堂内を散策しました。ミサが終わって暗くがらんとした堂内。中央にはシンプルだけれども清楚な聖母子像がかけられています。
そして聖壇に向かって左手の奥にギフレ候のお墓があります。
そしてその下にはカタロニア王国を示す紋章がありました。
このカタロニア王国の紋章は、次ようないわれがあります。
ギフレ候が戦場で傷ついて亡くなる直前に、まみえたフランク王に何か最後にほしいものがないかと問われた時に、最後に私のための紋章がほしいといいました。
そこで、フランク王は、自分の四本の指を彼の流れ出る血に浸し、彼の盾にその指で縦に線を書き、それを紋章にしたということです。
そしてその下にはカタロニア王国を示す紋章がありました。
このカタロニア王国の紋章は、次ようないわれがあります。
ギフレ候が戦場で傷ついて亡くなる直前に、まみえたフランク王に何か最後にほしいものがないかと問われた時に、最後に私のための紋章がほしいといいました。
そこで、フランク王は、自分の四本の指を彼の流れ出る血に浸し、彼の盾にその指で縦に線を書き、それを紋章にしたということです。
2008年5月11日